トップページ   更新履歴 スタッフ紹介 店舗案内 成田のあれこれ クッキングレシピ ショッピング Link HOME
成田 十七軒党って??(成田市史より)
 
成田の門前町には、草分けとされている十七軒党とよばれる家格上位者があった。
これには、最初七軒党であったのがその後だんだんと増えて十七軒党になったという伝承もある。
       
 
 





 

十七軒党がいずれかの家については、伝承ではその多くは不明であるが、文政4年(1821)「成田村指出帳」には、この十七軒以外には名名主・組頭になった者はいないと記されている。
これを信頼すれば、それ以前に名主組頭を勤めていた家から、おおよそ十七軒の見当がつく(清左衛門、三郎左衛門、惣左衛門、十左衛門、武助、源五右衛門、弥兵衛、与一右衛門、半左衛門、重右衛門、与五右衛門、伊平次、又右衛門、又左衛門、久兵衛、善之丞、吉右衛門)。

またそれには組頭は5人組筆頭から選ぶとあるように、先に予想した十七軒党は天保10年(1839)までの「5人組帳」にはいずれも各組の筆頭になっているから、5人組は十七軒党の1軒をそれぞれに振り分けて、それを中心にして構成していたとみられる。(ただし五人組の総数は十七よりも多い)。

文政15年の「宗門人別帳」をみると、この頃はすでに門前町の都市化が著しかったものと思われるが、この十七軒はいずれも高持百姓であり、そのうち10戸は持高五石以上のどうやら農業収入のみで生活できる階層の家であった。また3戸は4石台である。
十七軒党は各マケの本家筋の家といってもよく、この変動によって同族関係も大きく変質したと思われる。

 

現在の門前町には経営者が異なるのに暖簾(店の名)が同じ商家がいくつかみられる。これはこうした親が商売を拡大し、それを各子女それぞれに分け継がせた血縁者の分家である場合が多い。
成田の隠居慣行は、現在でも何軒かにみられるが、戦前までは大店であれば後継ぎに店を譲ると別に設けられている隠居屋に移る者も多かった。仲町だと、裏の神明山に仕舞屋(しもたや)を持つ家が多かった。決まった隠居屋がなければ自分の家作や新しく家を買ってそれにあてた。その中には隠居屋を後継ぎ以外の子女に譲って分家とすることもあった。屋号がインキョヤとよばれている家は皆これによる。


成田に血縁でないものに対する暖簾分けがないのは、第一に町が小さく奉公人、店員に家業を与える余裕がなかったためである。奉公人は年季が済み礼奉公が終わると自ら独立しなければならなかった。その場合かつての老舗の商品名を店の名に使っている例もあるが、経営は最初から独立採算である。第二に現在のように町が発展する前に、株式による同一経営者による支店制度などの近代経営が導入されたためである。